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2022年11月23日

4年前にRE/MAXに加盟しました

RE/MAX L-style

私がRE/MAXに加盟したのが、2018年6月。RE/MAX L-styleとして正式にOpenしたのは2018年9月でした。

加盟調印した時に借りていた事務所は約5坪の小さな事務所でした。

1人でやっていた会社ですからこの広さで十分だったのです。

なぜその事務所を借りていたのか、それはその当時住んでいたマンションから一番近い事務所だったからです。

会社を始めたきっかけ

今の会社を始めたきっかけ、それは今の上の子が生まれた時でした。

以前も10年半に渡り不動産会社を経営しており、その時はCentury21の加盟店として4店舗経営していました。

社員も30名近くいた時期もありましたし、傍目に見ていれば順調そのものに見えていたかもしれません。

でも実態はやりくりするのが大変で、毎月莫大にかかる広告宣伝費(ポータルサイト)、家賃、社員の給料、各店舗に車2台づつは配備していたのでそのリース料、駐車場代、保険代などで毎月1,500万円は最低かかるような所帯でした。

今は反響が取れているけど、そんなものがいつまで続くか分からない、パイの奪い合いなのでいつこの流れが逆転されるか分からない、そもそも社員が揃って辞めた時にどうしたらいいんだろ?

そんなことを考えている時に生まれたのが今のこどもでした。

この子が大きくなった時に、せめて20歳になるまでは頑張らなくては。

そう思った瞬間に血の気が引いていきます。

20年後の会社を考えた時に存続できているイメージができなかったのです。

それどころか10年後の未来が想像できなくなりました。

そう思った瞬間に、いろいろな手を施します。

反響に頼らない集客を目指して、いろいろな提案を社員にしていきますが、現状で飯が食えている本人たちにその危機感は全くありません。

勉強会も頻繁に開催しました。

変わらなきゃいけない理由、こうすれば反響に頼らない営業ができるという勉強会を定期的に行いました。

毎回の勉強会の資料作りには3日も4日もかかります。

2時間くらいの勉強会、半分の社員はボーっと話を聞いているだけ、中には居眠りする社員もいました。

これを半年くらい繰り返しているうちに、重大な決意をしないといけないことに気づきます。

出来上がった組織を変えることは容易ではない。

かといって、会社を解散したり他人に譲渡するという考え方もありませんでした。

社員にも家族がいるし、会社で収益物件も何棟か保有していたので、今は安定している。

選択肢はこれしかないと決断した結果は、

会社を捨て、0からやり直すという決断でした。

以前の会社は従業員に譲渡し、自分だけ出ていく。

自分だけ出ていくという決意をしたので、資産は持ち出しませんでしたが、10年間でその規模まで会社を成長させた自負がありました。

いつでも同じものは作れる、その自信がありました。

お金はありませんでしたが。笑

その時持ち合わせていたのは、わずかばかりの貯金自信だけです。

あとから気付いたのですが、その時乗っていた車も会社名義ですから手放しました。

とはいっても、車なしで不動産営業はできませんので中古で割安な車を購入します。

そして、宅建業の開業手続き、お金がないので自宅の一室を事務所として開業しました。

そこから苦闘の日々が始まります。

創業当初

今の会社を開業したのが2015年3月、その当時は自宅の一室で開業したのは前述した通りです。

自宅で開業しても大丈夫だと思った理由、それはその当時住んでいたマンションに立派なラウンジがあったからです。

無料で使える共用ラウンジ、お客様と商談するには十分立派な接客スペースでした。

デスクワークは自宅で、接客する時はこの共用ラウンジで。

仕事場が自宅ですから、何時までも仕事に打ち込めました。

夜中不安で寝れなくなった時は、DM用の袋詰めをしたり、セミナーの準備、資料作りをしたり、24時間中18時間は仕事に向き合っていたかもしれません。

イーロン・マスクは今も週120時間働いているそうですが、それに匹敵するくらい仕事をしていたかもしれません。

0から集客する、これがテーマでしたからとにかく何でもやりました。

住んでいたマンションの全戸分の謄本を取得しDMしたり、空き時間ができたら近所にポスティングしたり、半年間毎日Blogも書いていました。

定期的にセミナーを開催し、投資用不動産を購入してもらえそうなお客様を集めたり、競売の入札代行などをしていたのもこの時期です。

そういえば自分でホームページも作りました。

やっていないことはないんじゃないかと思うくらい何でもやりました。

一括査定もやっていました。

その時は、自宅の一室でやっている信用力のない小さな会社でしたから、とにかく丁寧な査定資料を作ること、そしてうちに頼むメリットを出すために手数料を定額制(金額に関係なく一律40万円)とかにしたりして、とにかくどうしたら自分に頼んでくれるかそんなことばかり考えていた時期です。

その甲斐もあり、半年ほど経った頃にはBlog経由、セミナー経由で安定した集客を見込むことができるようになりました。

民泊に出会ったのもこの頃です。

民泊との出会い

最初のきっかけは、競売入札サポートをやっているときに出会った(一社)競売不動産流通協会の理事の一言でした。

『Airbnbって知ってる?最近東京では話題なんだけど。』

『何ですかそれ?聞いたことないです』

『大阪は遅いなぁ、こんなことも知らないんだ。。』

この言葉に刺激を受け、ひたすら調べました。

空いている部屋や家、使っていない自宅の一室さえもこのサイトを使えば借り手が見つかる。

世界中のバックパッカーたちはホテルではなく、Airbnbで宿泊先を探している、自分のそれまでの規定概念を覆すような話ばかりでした。

海外旅行はそれまでもたくさん行きましたが、全てパック旅行でしたし、航空券とホテルを別々に手配もしたことがないまま過ごしてきた自分にとっては、衝撃的な話でした。

海外では個別手配が当たり前、パック旅行をするのは日本人と中国人の団体客くらい。

それを聞いた時に、この話はビジネスチャンスだ。

そう感じたのです。

早速そのような記事をBlogにUPしました。

すると、東京のお客様から電話が入ります。

『今東京でAirbnbやっているんだけど、大阪でもやりたいから探してほしい。できれば2~3部屋借りたい』

『ん?借りたい?』

『東京では、普通の賃貸マンションをAirbnb用に貸してもらっている。大阪でも同じように探してほしい』

こういう依頼でした。

最初の率直な印象は、

『外国人が泊まりに来る部屋?しかも不特定多数?そんなの貸してくれる人いるのか?』

そうは思いましたが、自分の中ではビジネスチャンスと捉えている話です。

普通に貸してほしいといってもなかなか貸してはもらえないだろうな?

でも、いくらか賃料UPすれば貸してもらえるかもしれない。

しかも長期間にわたって空室の部屋ならなおさらチャンスがあるかも?

そこから約3日間に渡り電話での家主さんとの交渉が始まります。

『〇〇マンションですが、今お部屋の空きはありますか?』

『ちょっとご相談があるのですが、海外のお客様の宿泊先として、ゲストルームとして利用できるお部屋を探していまして、多少の賃料上乗せさせていただいて構わないのですが、そのような形でお借りできませんか?』

こういった電話を数百本かけました。

すると、少ないですがいくつか提供してくれるお部屋が見つかり、そのうちの1件をお借りいただきました。

もちろん借りるときには民泊運営することはお話ししていますし、契約内容も契約違反にならないように条項は打ち合わせ済の状態で契約しました。

でも、丸3日間電話して1件の賃貸契約を取っただけです。

このままじゃ労力と報酬が見合っていません。

そこで考えます。

同じようなお客さんは他にもきっといるはずだ。

そこにどうしたらこの物件情報を届けれるのか?

ここからです。

民泊、Airbnbに対するネットの書き込みをリサーチしました。

そこにコメントを書いたり、掲示板に物件情報があることを書いたりしました。

すると数日後には数組のAirbnb用の部屋を探しているお客さんから問い合わせが入りました。

お客さんが集まれば今度はまた物件探しです。

どのくらいの家賃であれば収支が取れるのか、それも複数のお客さんにヒアリングし、2~3割の賃料UPでも収支が合うことを確認します。

ここまで下ごしらえができれば十分です。

相場の2割UPで借り手が付き、しかも決済までのスパンが短い。

借りるのは大手企業にお勤めの方とか、属性のいい人ばかり。

そのうち、民泊を専業にしている人たちからも物件情報の提供を求められるようになりました。

そこでまた考えます。

そんなに儲かるなら、自分でもやってみたい。

というより、実際にどんなものか分からなければ大家さんを口説くのにもお客さんに勧めるにしても今が限界だわ。

ということで、自分でもまず一部屋借りることにしました。

大阪の日本橋にある小さなワンルームの一室です。

でもまだ何も分からない状態です。

まず、Airbnbで近場の宿泊先を見つけ宿泊しました。

1つでは何がスタンダードなのか分からないので、別の部屋にも泊まりに行きました。

そこで、この部屋のいいところ、ダメなところ、こういう電化製品があった方がいいな、この家具もいるなとひたすら研究しました。

持ち運びできるWi-Fiを借り、空港から電車に乗り継ぎ、部屋までの道案内、できない英語を翻訳機を使いながら一生懸命作りました。

そして返却時には簡単に剥がせる壁紙を購入し、奥さんと一緒に部屋を作り上げ、小物を置きイメージUPさせ、ベッドや電化製品を購入しリスティングをUPします。

英語は話せないので、会話しなくても、質問がなくても成立するように案内書を丁寧に作り上げました。

するとどうでしょう?

1ヶ月も経たないうちに、翌月からの予約が次々と埋まっていきます。

今度は自分も同じように民泊運営していることをBlogに書きました。

するとまた反響は一気に増えます。

お客さんには自分のノウハウを全て包み隠さず提供しました。

うちで使っていた案内書もそのまま雛形を渡しました。

物件や住所も違うので、その部分だけ書き換えてねと。

この仕事に取り組んでいた時、感じていたことが一つありました。

みんなWin-Winなんです。

空室で困っていた貸主さんは部屋が埋まり、しかも賃料がUPして埋まります。

借りた人は、払った家賃の数倍の宿泊費が毎月安定して入ってくる。

そしてその部屋を仲介していた私は、借りて儲かったお客さんから継続してまた次の部屋を借りてもらえる。

みんなが喜んでくれる仕事へと結びついていきました。

そこから2年ほど経ち、民泊が社会問題になり、TVや世間で騒がれだすまでは。

その後法整備が行われ、届け出のない民泊運営は不可能になりました。

その間に私が運営していた民泊の部屋は7部屋、毎月の宿泊売上は200万円を超えるほどにまで膨れ上がっていました。

また、その賃貸仲介の仕事だけでも月に7~8部屋、多い時には10部屋以上契約した時もあり、創業当初は毎日休みなく働き続けていた記憶しかありません。

ただこの時期は、民泊関係の仕事だけでてんやわんやでしたので、不動産仲介(売買)の方は年に数件程度まで落ち込んでいました。

このままでは不動産屋ではなく、民泊屋さんになってしまう。

こういう危機感も感じていた時期でしたから、ちょうどいい潮時だったのかもしれません。

次の転換期

とはいえ、これだけあった安定収入を0にしてしまうのはもったいないということで、新築木造アパートを購入することを決意します。

借りてできないなら買ってしまえということです。

でも、その当時まだ創業して2期目が終わったばかりです。

金融機関も協力的ではありませんでした。

購入と融資の打診をしましたが、快い返事がもらえませんでした。

せめて自己資金で2割は必要ですと。

そこで、住んでいたマンションを売却し、自己資金を作ることを考えました。

その時住んでいたマンションは、タワーマンションが売れ残っていたタイミングで購入したものでした。

そこから6年が経ち、購入した金額以上で売却できそうだったのです。

自分が住んでいたマンションにDMしていたくらいですから、同じマンション内で売却させていただいた部屋は数件あり、いずれも購入額以上での売却に成功していましたので、今売れば少なくとも手元に1千万円以上残る、そう思って販売活動に踏み切りました。

その目論見は的中し、売却後1500万円ほどの現金が残りました。

奥さんからすると、結婚してこどもが生まれ、半年も経たないうちに会社の代表を辞め、0から会社を作ると言い出したり

やったことのない民泊を始めるから、部屋づくりや清掃、シーツの交換を手伝ってくれと言い、

そして今度は住んでいるマンションを売るから賃貸に引越しする。

こんなに訳の分からないことを立て続けに言って、何てヤツと結婚したんだと思ったはずです。。

でも彼女は反対することはせず、いつも手伝ってくれ応援してくれました。

感謝しかありません。。。

ありがとうね。

 

そして、手元に残ったお金を全て銀行に預入れ、さらにそれを頭金にして新築アパートを購入し再度民泊を始めました。

全9部屋の1LDKタイプのアパートでした。

全部屋テイストを変え、それぞれが違うテーマで部屋づくりをしました。

9室のうちの1室はスタッフルームとして利用し、替えのシーツや備品などを貯蔵する部屋にしていました。

また、できる限りチェックインは立会いにし、少しでもコミニケーションを図れる機会を作りました。

その結果、立地は以前に比べて良くはありませんでしたが、稼働率は90%近くに及び、客室売り上げは8室分で200万円近く/月まで伸ばすことができました。

ここでまた転機が訪れます。

この頃、インバウンド需要真っ只中で中国人旅行客が数多く訪れていました。

この施設でも1年近く運営していた時、この物件を売ってほしいという声がかかります。

中国人が経営する不動産会社さんからです。

収益の柱として保有した物件ではありますが、この業務に追われて不動産仲介の仕事が手につかない時期が続いていました。

ちょうど、この物件の運営を開始し数ヶ月経ったときにRE/MAXに加盟したのです。

 

RE/MAXに加盟したきっかけ

 

RE/MAXの事を初めて知ったのは、今の会社を創業してももない時期でした。

自分でホームページを作っている時、キャッチーな言葉を探すためにネットサーチをしていました。

自分の不動産に対する考え方、お客様への提案の仕方、それこそ自分がお客様に対しどれだけ真摯に向き合っているというかという情熱、これをどう伝えようかと悩んでいた時期でした。

そこで見つけたのが不動産エージェントという働き方でした。

RE/MAX Japanのホームページを見ていると、まさに自分がお客様に伝えたいことばかりが書いてあり、これだと思いすぐにメールを送ったことを覚えています。

その時、自宅マンションの共用ラウンジにお越しいただいたのが、その時RE/MAX Japanで社長をしていた小谷真千子氏と今も本部で活躍している福井氏でした。

『不動産エージェントになりたいんです』

第一声こう話したことを鮮明に覚えています。

ただ、そこで言われたのが

『不動産免許、宅建業をすでに卸している社長さんはエージェントになれないんです。。。』

という現実でした。

開業するまでに要した期間は3ヶ月弱、開業資金としても300万円近く投下したばかりの瞬間でした。

『あら。。タイミングが遅かったな。。』

もう少し早く出会っていれば開業せずにエージェントになっていたのに。。

RE/MAXエージェントになるきっかけを逃してしまったのです。

そこから3年が経ち、RE/MAXのことなどすっかり忘れて民泊に夢中になっていた時に、再び本部の福井くんから連絡がありました。

『大西さん元気ですか?』

ちょうどその1年ほど前に、民泊物件の賃貸仲介をしている際に出会った人たちがいました。

彼らはRE/MAXのオフィスオーナー、エージェントとして活動している人たちでした。

その時は自分がまさかRE/MAXのオフィスオーナーになるとは夢にも思っていませんでしたので、

『あっ。知ってる。ここの話聞いたことある』

このくらいの認識でした。

この時福井君から聞いた話は、この3年間でオフィスが増えてきたこと、RE/MAXのエージェントさんの数も50人くらいにまで増えたこと、そして不動産経験の少ない方々がオフィスオーナーとして活動していることなどで、勧誘ではなくただの世間話をしにきたようにしか感じなかった時間でした。

でも、彼が帰った後一人でいろいろ考えます。

なぜこのタイミングなんだろう?

なぜ勧誘せずに帰ったのだろう?

エージェントという働き方は、自分がこの働き方最高と思って話を聞きに行ったくらい魅力的な仕組みです。

不動産経験が長い自分がもし、オーナーとしての立場でサポートできればどんな世界が作れるのだろう?

以前の会社では社長と社員という関係性だからうまくいかなかった。

元々人の上に立つのも下に立つのも嫌いな自分だったからこそ、社員との関係が自分にもストレスになっていたし、社員と社長の間には同じ関係性が作れないと思い込んでいたので、1人でやり切る選択肢を選んでいました。

でも、ひょっとして。。。

エージェントとオフィスオーナーの立場であれば、対等の関係性で一緒に仕事ができるかも?

ちょうど、一人で仕事をしていることの限界を感じている時期でした。

たしかに、そこそこの収入も確保できるようにはなっていたし、お客様にも案件にも困っていませんでした。

ただ、話し相手がいないこと、相談する相手がいないこと、そして喜びを共有できる仲間がいないことの寂しさを感じていた時期でした。

『福井くん、RE/MAXのこともう少し詳しく教えてくれない?』

電話するまでそんなに時間はかからなかったと思います。

『ありがとうございます。では一度本部に遊びに来てください。』

で、後日伺った本部でまた衝撃的な出会いがありました。

佐久川CEOとの出会いです。

佐久川さんの名前は以前から聞いて知っていました。

もちろんこの時RE/MAX JapanのCEOをやっているというのは初耳です。

私が若い時、賃貸住宅サービスという会社で働いていたことがあり、その時の後輩がその後転職した先でお世話になっていた先輩が佐久川さんだったのです。

そこから20年以上経ってもその後輩とは付き合いがあり、彼と会って聞くのはいつも素晴らしい上司の話ばかりでした。

私が楽しそうに、次したいこと、今仕事で仕掛けていること、将来こんな会社にしたいという話をしているといつもこう言われました。

『あっ。それうちの佐久川も同じこと言ってました。』

『それちょうど、少し前にうちの佐久川社長がやってましたよ。』

自分と同じような発想で考える人などほとんど見たことがなかったので、脳裏に鮮明にその名前が刻み込まれていたのです。

『一回一緒に飲みに行きたい』

ずっと彼に伝えてはいたが、伝えてくれなったのか、その思いが伝わらなかったのか、会えないまま20年ほど経過し、ようやく出会ったのがRE/MAX Japanの本部でした。

その瞬間に自分の中で決意が決まりました。

会いたくて会えなかった人とここで出会った。

しかも紆余曲折してこのタイミングで出会っている。

何でRE/MAXにいてるんですか?

こんな質問はしたような記憶はありますが、とにかくRE/MAXがどうとかこうとかではなく、運命に導かれたような気持ちになりました。

その瞬間RE/MAXに入るという決意は固まり、家に帰って早速奥さんに報告しました。

『RE/MAXに入ろうと思うねん』

『何それ?』

『前から考えてたん?』

『ううん。今日入るべきやと思ったばっかり(笑)』

『だから、昨日まで自宅兼事務所の家を探してたけど、オフィスを引越しする。家は家で別に探す。』

『うん。分かった』

こうして、RE/MAXに加盟が決まりました。

加盟金にいくら必要だとか、毎月のFC料がいくらかかるとかは調印式の日に聞きました。

あと、佐久川さんとつないでくれた後輩というのは、今関西本部でスタッフをしている住野くんです。

ちなみに、加盟3年前にうちの自宅マンションまで出向いてくれた小谷さんは、今うちのオフィスでRE/MAX JapanのTOPエージェントとして活躍中です。

これだけのキーパーソンとの出会い、引き合わせがあったんだから運命の導きといっても過言ではないでしょ?

一つ一つの出会い、タイミングには意味があります。

紆余曲折して辿り着いた道だけど、この道でしか再び出会えなかった人たちだと思っています。

なので、この出会いを大切に、そしてこの出会いが最終的に素晴らしいものであったと確信できるようにこれからも頑張っていきます。

 

 

続編があります。

まだまだこの話は続きますが、今日はこの辺で。

この記事を書いた人
大西 征昭

オーナー

大西 征昭Masaaki Ohnishi

不動産のことなら何でもお任せ。
ただの不動産屋ではないです、不動産の専門家です

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